KKEの現場から

数理の基礎研究を活かし、限られたデータから巧みに洪水を予測する

近年ますます頻度と規模が激しさを増す、日本列島を襲う豪雨。2020年の熊本豪雨(令和2年7月豪雨)など、大きな被害をもたらした種々の豪雨は記憶に新しいところです。これらの豪雨では、第一に河川の氾濫が人命を脅かします。そこで、洪水が起きるかどうかの判断は、市民に避難の勧告や指示を出す自治体にとって、あるいは河川周辺の工事の安全管理を行う建設会社にとって、きわめて重要な問題となります。

構造計画研究所(以下・KKE)では、河川の水位を簡易に予測できる、リアルタイム洪水予測システム「RiverCast」を立ち上げ、早期の避難判断や河川工事のオペレーションを支援しています。その開発から携わっている奥野、事業展開を進めてきた山上・瀧川に、開発の経緯やRiverCastの強み、今後の展望などを聞きました。

気象防災ビジネス室 奥野峻也(左)・山上優太(中央)・瀧川宏樹(右)

AIや物理モデルに頼らない未来予測

入社以来、数値シミュレーションによる未来予測をもとに、津波、風の流体解析や防災に関するコンサルティング業務に携わっていた奥野。業務に携わる中で、防災に資する新たな未来予測の手法を確立したいと感じました。

数値計算で自然現象を予測する分野では、これまで自然現象をより精緻に再現するために、より複雑な物理モデルを構築し高性能のコンピュータで計算させる、という方向に発展してきました。
「このアプローチはもちろん大事です。ただしモデルの複雑さが増すほど、シミュレーションの前提となるシナリオや観測データもより信頼性の高いものを要求されます。しかし、特に防災分野ではシナリオの不確実性が大きく、また観測できる範囲にも限界があります。それなら、モデルを複雑にするのではなくラフな入力データから直接的に予測を出せる方法を編み出せないだろうか、と考え2016年に研究を始めました」(奥野)

物理モデルを介さずに、観測データから直接的に未来を予測するアプローチとして、機械学習(いわゆるAIの一種)により統計的に予測する手法が挙げられます。
「2016年はちょうど、機械学習、特に深層学習(ディープラーニング)が世間を賑わせた年でした。どんどん深層学習を使って予測していこうという時代の流れでした」(奥野)

しかし、ここで奥野はあえて別の手法を選択しました。力学系理論を応用した手法です。これは「力学系(ダイナミカルシステム)」から確率や統計によらず時系列データが生成されるとみなすもので、機械学習とは前提が大きく異なります。
「トレンドに乗りすぎてしまうと、新規性も出しにくいし、ビッグテックにも太刀打ちしにくい。そこで同じデータ駆動の予測でも、違った軸からアプローチしてみようと」(奥野)

東大と共同で行った数理工学の研究

奥野は2016年、KKEと東京大学生産技術研究所が共同で設置した社会連携研究部門に参画。東京大学に出向し、「未来の複雑社会システムのための数理工学」というテーマのもと、合原一幸教授とともに力学系理論の研究をスタートしました。

数理工学を専門とする合原研究室での共同研究は非常に得るものが多く、様々な知見に触れ議論を交わしたことが研究を大きく進展させたと言います。
「先生が様々な配慮をしてくださって、とても研究しやすい環境でした。こういうことがやりたいと言うと、すぐに海外の著名な先生を呼んで、討論会を開いてくださったということもありました」(奥野)
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研究は無事に結実し、少量(短時間)で少数の変数しか観測できない多種類の変数のデータに対しても、異なる予測を組み合わせることで高い精度で未来予測できるような手法を開発。この手法をまとめた論文1は、2020年にダウンロードされた物理分野の論文トップ1002(39位)に選ばれるなど、世界的に高く評価されています。
「この未来予測の手法は、さまざまな事象の予測に応用しうるものです。しかし当初から、豪雨被害が増大している社会的背景や、現象や技術の特性を踏まえ、洪水予測に活かせるのではと踏んで研究を進めていました。精度の良いデータが大量に得られる場合は機械学習での予測が一番良いのですが、河川の場合は、学習に必要な長時間のデータを得ることは困難ですし、データの精度についても、水位のデータ以外は、観測誤差が大きくて精度が低い。また、洪水は降雨を外力とした決定論的な過程なので、力学系理論の応用先として最適ではないかと考えました」(奥野)

こうして、水位データと気象庁の降雨データのみから河川水位を予測する、RiverCastの予測エンジンを開発。その後、KKEにて、新規事業開発の一環としてプロダクトとしての質を高めつつ、事業を拡大させるためのマーケティング活動を進めていきました。
「奥野さんが合原先生の研究室で技術を開発しつつ、社内では水害対策に意欲的な人がマーケティングに取り組む。その両輪を回せたのがRiverCastの発展につながりました」(瀧川)

RiverCastの予測手法は、観測データがその背後に存在する決定論的な法則(左上図)から生成されると仮定し、「埋め込み」と呼ばれる数理的手法によって観測データだけから元の法則の特性を再構成(右上図)し予測します。

RiverCastの予測手法概要。最適化計算により予測誤差を最小化する「埋め込み」と呼ばれる数理的手法に基づくパターンを複数求め、個々の埋め込みにもとづく予測結果を適切に統合し最終的な予測結果を生成します。

合理的な意思決定を支援する洪水予測システム

RiverCastには以下のような大きな利点があります。

まず、従来の手法とは異なり、河川の測量や物理パラメータのチューニングを行う必要がありません。水位のデータと、気象庁の雨量データのみから簡単に予測でき、水文データが不足して予測できなかった中小河川の予測にも用いることができます。導入のコストも、類似サービスの3分の1程度で抑えられます。

そして、物理モデルや機械学習を用いた既存の手法よりも精度が高く、少量の観測データで予測が可能です。リアルタイムで15時間先までの予測が可能で、クラウドサービスのためWebからいつでも予測を閲覧できます。
「洪水のような自然現象を前にしては、人は逃げるしかありません。しかし単に避難を指示するだけでは、行動に移しにくい場合があるのも事実です。たとえば天気予報の使い方は皆さんに根付いていますよね。降水確率が30%と言われれば、『とりあえず折りたたみ傘を持っていこうか』となる。同じように、我々の未来予測も、迫る危険を可視化することで判断材料を与え、皆さんの防災に対する意識作りに貢献できたらなと」(山上)

水位の予測では、気象予報の誤差が大きく影響します。そのためRiverCastでは、予報の誤差を考慮しながら「8時間後までに基準の水位を超える確率が80%」といった形で確率的な予測を提示し、より詳細な情報から意思決定をできるようにしています。

「また、我々の力学系理論の手法は、『外挿』ができる、つまり今までにない規模の洪水も予測することができます。近年は気候変動に伴って、過去に経験していないような大雨が降るので、外挿ができるという点はより大きな強みになっています」(山上)
「はじめはRiverCastの導入に懐疑的だったお客様が、実際にご利用いただく中で、今までにない規模の出水に対しても高精度に予測ができるとわかると、大きな信頼を示してくださるようになりました。お客様の笑顔を見られたときに、お役に立てたと実感でき、とても嬉しかったです」(瀧川)

機械学習を用いる手法は、学習をさせていない未経験のデータを予測することが苦手という弱点があります。一方でRiverCastは機械学習と比べ、過去のデータには無い規模の大きな洪水にも対応することができるのです。

RiverCastは現在、自治体に実際に導入され避難計画に活用されているほか、最近では建設会社への導入が拡大しています。河川周辺での工事は、増水時に従業員の安全を確保し、重機や資材の浸水を回避することが必要であり、RiverCastを用いることで余裕を持った体制判断ができます。
「2022年5月に、国土交通省の提供する新技術情報提供システム(NETIS)に登録されました。これにより、公共工事への活用機会の増加や、技術そのもののさらなる向上につなげていいけると期待しています」(山上)

RiverCastによる水位予測のイメージ

防災ビジネスを通して安全・安心な社会を目指す

RiverCastの普及を通してチームが目指すのは、災害に強い社会を築いていくことです。

「私が入社する前に、居住地の近くで大規模な洪水が起きました。大雨が予報されていたのにも関わらず、なぜ多くの方が亡くなってしまったのかという疑問から、防災に取り組みたいという強い思いを持ちました。これからも防災ビジネスを通して、避けられるはずの被害を減らせるように貢献していきたいです」(瀧川)

「RiverCastのみならず、最近官公庁が力を入れている予測も、市民にとって有用な情報の一つです。官公庁の予測は、カバーできる範囲がとても広く、RiverCastの予測は、精度がとても高い。それぞれの長所を活かし、両者がうまく共存していけたらと思います」(山上)

社会の防災の力を継続的に高めていくためには、社会貢献をしたいという思いだけでなく、まずはビジネスとして社会に根付かせることが大事だとメンバーは口をそろえます。

「洪水の他にも、現在は高潮の予測にも取り組んでいます。また、RiverCastで退避の判断をして、社会シミュレーションを用いて退避経路につなげるなど、KKEが提供している他のソリューションと組み合わせるということも考えられます。他にも、社内では観測データとシミュレーションを融合させるデータ同化技術の開発に力を入れているグループがあります。これも限られたデータをいかに活用するかを追求していく分野で、RiverCastの考え方とも親和性が高く、面白いことができるのではないかと。我々の活動を通して、安全・安心な社会を目指していけたらと思います」(奥野)

産学連携から生まれた技術の種を価値あるソリューションに成長させる。その信念のもと、チームは日々新たな取り組みを進めています。

 

■リアルタイム洪水予測システム「RiverCast」Webサイト:https://www.weather.kke.co.jp/

 


1 Nature Publishing Group 総合科学雑誌:「Scientific Reports」(2020年1月20日版)
論文タイトル:Forecasting high-dimensional dynamics exploiting suboptimal embeddings
著者:Shunya Okuno, Kazuyuki Aihara, Yoshito Hirata
DOI番号:10.1038/s41598-019-57255-4
2 Top 100 in Physics, Scientific Report.

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